堀直虎が大番頭(おおばんがしら)の時、水戸で発生した『天狗党』の討伐を命ぜられ、それを断って50日間の閉門を言い渡された。
今回の考察は、その閉門時に直虎が詠んだ漢詩をめぐり、その文底に込められた彼の本音を探ってみたい。
というのは、以前筆者が書いた『続・堀直虎辞世完全解読!』で結論した、彼の辞世には妻である俊への思いを隠したという解釈に対し、今回考察する漢詩の中に、その裏付けともなる解釈ができることを見出したためである。
まずは問題の『元治元甲子秋七月閉居所感』という漢詩を見てみよう。
1 噫不尤人不怨天。
2 煥然抗表字三千。
3 常諳賢屈覊征事。
4 欲此唐虞揖讓年。
5 枯骨那於禁闕裡。
6 俊髦宜待帳惟前。
7 湘江煙睹方愁絶。
8 惟覚英光射四辺。
(冒頭の数字は説明のための行番号)
これは「元治元甲子秋七月」に直虎自身が書いたもので、1864年(元治元年)7月、つまり直虎が閉門となった7月13日から同月30日の間、「閉居所感」とあることから閉門の沙汰を受けた直後の心境を詩に託したものに違いない。
ちなみに天狗党追討の命が下されたのは同年の7月8日である。
最初に天狗党討伐について簡単に述べておく。
天狗党の錦絵「歌川国輝 (3代目) 」
天狗党は水戸藩の攘夷派浪士を中心に結成された武装集団で、同年3月に水戸(茨城県)の筑波山で挙兵した(この辺りの水戸藩内のゴタゴタについては本編「燎原ヶ叒」でも記す予定なので略す)。
当初彼らの目的は“横浜湾の即時鎖港”で、一旦は攘夷決行を打ち出したにもかかわらずいつまで経っても横浜が閉鎖されない幕府の優柔不断さに暴発し、攘夷派が水戸藩内から排除された鬱憤もあっただろうが、武力行使で江戸を中心とした関東への圧力を強めて動き出した事件である。
それに対して幕府が追討命令を下した。
あたかも京都では「禁門の変」が勃発しようとする直前のことである。
これを大番頭だった直虎は拒んだわけがだ、これについては『堀直虎・考⑥わしゃ天狗党征伐なんかやらんよ』でも考察したのであえて触れない。
さて漢詩である──。
まず1行目から5行目までの筆者の解釈を記してみる。
1行目の『噫不尤人不怨天』は「ああ、人を尤(と)がめず天を怨みず」と読む。
これは『四書五経』に出てくる孔子の言葉で、読んで字のごとくで「己のことは天だけが知っている」という意味にとらえておけばいいだろう。
続いて2行目の『煥然抗表字三千』は「煥然(かんぜん)とした表字三千に抗(あらが)う」と読もうか、「煥然」は「光り輝く」の意で、『表字三千』とはおそらく『三体千字文』のことだろう。
これは千文字で構成された漢字の書写の手本に用いられたいわば習字の教科書で、書かれた千字の文字は長詩になっており、楷書・行書・草書の三書体あることから『三体千字文』と称され、つまりこの行の意味は、美しいそれらの文字に逆らうようなやるせない心境を詠んだものではないかと思われる。
次の3行目『常諳賢屈覊征事』は「常に諳(そら)んじている賢人たちの知恵を挫(くじ)くように、征事を手綱でつなぎとめた」という意味であろうか。
『征事』とは「天狗党征討」のことに違いなく、つまり、思うようにならない現実の嘆きを詠み込んだものだろう。
続く4行目、5行目の二行には中国の王朝の話が出て来る。いかにも直虎らしい論調と言うべきか。
『欲此唐虞揖讓年。枯骨那於禁闕裡。』
『唐虞(とうぐ)』というのは古代中国の伝説上の国の名で、『揖讓年(ゆうじょうねん)』というのは天子が位を譲る年のことを言う。そして「これを欲する」だから、つまり天皇が別の者に位を譲ったら、禁裏(きんり)に己の枯骨(ここつ)を曝(さら)そうかという密かな勤皇の思いを綴ったものだろう。
ここで重要なのは、直虎の中には勤皇の精神が厳然とあったという点である。つまり彼は幕臣でありながら、勤皇家でもあったという事実である。
この事から、同じ勤皇家である天狗党を率いる武田耕雲斎に対し(この時はまだ耕雲斎は天狗党の党首には担ぎ上げられていないが)、何か特別な感情があったと考えてもけっしておかしくない。
しかし今回の考察の問題はそこではなく、次の6行目と7行目にこそある。
ここからは少し丁寧に見ていきたい。
6行目『俊髦宜待帳惟前』であるが──、
『俊髦(しゅんぼう)』は“衆に抜きんでて優れた人材”という意味の慣用句である。
『俊』は“飛びぬけて優れる”意で、『髦』は“髪の毛の中でも太く長い毛”のことで、この『俊髦』という言葉を知っていれば普通はそう読むに違いなく、おそらく江戸の頃の学識者にとっては常識だったと考えられる。
つまりこの部分は「“有能な人材”の登場をよろしく待つ」──『帳惟前』は「帳(とばり)の前で考えをめぐらし」と読めるので、閉門の身の上を思いながら自分だったらこうするのにという歯がゆさを感じつつ、優れた人材が出て来るのを待っていると、幕臣としての悶々とした気持ちが伝わってくる。
続く7行目の『湘江煙睹方愁絶』である。
これは最初の『湘江』が問題で、これをどう読むかで全体の意味が180°異なってくるところが最高に面白いところであると筆者は思っている。
『湘江(しょうこう)』とは中国の湖南(こなん)省に流れる大きな川の名前であるが、日本で『湘』といえば「湘南」を思い浮かべる人も多いだろう。
そもそも「湘南」の、『湘』の字は「相模国」の「相」に「さんずい」を加え、相模南部を表した言葉とも言われ、中国の湖南にちなむともされている。
結果的に天狗党(武田耕雲斎)は、当時京都にいた一橋慶喜に幕府の方針を確たる攘夷にさせるため直談判しようと中山道を東進するのだが、当初はその目的(横浜港鎖港)から、江戸から横浜港へと向かい、そして東海道を天皇のいる京都へと目指す進路をとるだろうと考える者も当然いたに違いない。このときはまだ天狗党は江戸の手前で駐屯している。
とすれば『湘』は「湘南」つまり「横浜方面」を意味し、『江』は「江戸」である。「湘南」という地名はすでに平安中期には存在しており、鎌倉のあたりを指す言葉として一般認識されていただろう。
つまり、“野州浮浪の輩(当初天狗党は幕府からそう呼ばれていた)”が江戸にやって来るという当時の切迫した感覚でこの部分を訳してみれば、「天狗党が江戸を通り過ぎ横浜へ向かう間に、いくつもの戦火の煙を見ることになる憂いを絶つ」──「考えるのはもうやめよう」という意味に捉えられる。
閉門時の心境としてはもっともだ。
そして最後の行の『惟覚英光射四辺』は、『四辺』つまり「辺り」を射るような英知の光はないものかと深く考える──「希望の光が見いだせない」とでも約しておこうか。
『ああ、人を尤がめ天を怨むのはやめよう
それは光り輝く三体千字文に抗うようなものだ
常に諳んじている賢人の知恵に逆らい天狗党征討を断った
天皇が退位したら禁裏に己の枯骨を曝そうか
帳の前でじっと考え新しい人材の登場を待つ
天狗党が江戸から横浜へ向かう戦火の事を考えるのはやめよう
いまだ希望の光が見いだせない』
つまりこれが一般的に考えられるひとつの訳で、直虎閉門時の心境としていかにも悲観的で、納得ができる読み方ではないだろうか。
屈原「メトロポリタン美術館」より
ところが塞翁が馬で、『俊髦』という言葉を知らなかった筆者は6行目の『俊』の文字を見た時、妻の「俊」のことではないかと直感した。
これは直虎の妻を特別な思いで見る者にとっては、最初に思いつくことと言って過言でない。
すると6行目の『俊髦宜待帳惟前』がまったく違った意味に見えてくる。
『髦』は単体では“垂髪”あるいは“さげ髪”という意味だから「俊のさげ髪」と読めるのだ。
こう読めば「俊の(可愛らしい)さげ髪が美しく(宜しく)、(難しいことをいろいろ)考える前に夜の帳が降りるのを待つ」と全く違った意味になるではないか。
直虎の心には憂いもなければ後悔もない。俊に対する一途な思いだけがあるのである。
このマジックにでもかかったような清々しい心地は一体なんだろう?
続く7行目の『湘江(しょうこう)』も、中国にある川の名と普通にとれば、詩の意味がまるで違うものに変わってしまった。
湘江にはこんな伝説がある──。
舜帝(紀元前2277~前2178年の王)の妃に『湘妃』と『湘君』という二人の女性があり、舜帝が没すると二人は悲しんでその川に身を投じて川の神になったという伝説である。
そして楚(紀元前11世紀~前223年に存在した中国の王朝)の時代、『湘妃』と『湘君』は人々の信仰の対象となっていたと言う。
漢文が好きな人は高校あたりで学んだのかもしれないが、「漁父の辞」を書いた“屈原”は楚の時代に生きた詩人である。
その彼の詩の中に『湘妃』と『湘君』をモチーフにした『湘君』と『湘夫人』と題する対の漢詩があるのだ。
『湘君』
君不行兮夷猶 蹇誰留兮中洲。
美要眇兮宜修 沛吾乘兮桂舟。
令沅湘兮無波 使江水兮安流。
望夫君兮未來 吹參差兮誰思。
駕飛龍兮北征 邅吾道兮洞庭。
薜荔柏兮蕙綢 蓀橈兮蘭旌。
望涔陽之極浦 橫大江兮揚靈。
揚靈兮未極 女嬋媛兮為余太息。
橫流涕兮潺湲 隱思君兮陫側。
桂櫂兮蘭枻 斲冰兮積雪。
采薜荔兮水中 騫芙蓉兮木末。
心不同兮媒勞 恩不甚兮輕絕。
石瀨兮淺淺 飛龍兮翩翩。
交不忠兮怨長 期不信兮告余以不閒。
鼂騁騖兮江皋 夕弭節兮北渚。
鳥次兮屋上 水周兮堂下。
捐余玦兮江中 遺余佩兮澧浦。
采芳洲之兮杜若 將以遺兮下女。
時不可兮再得 聊逍遙兮容與。
『湘夫人』
帝子降兮北渚 目眇眇兮愁予。
嫋嫋兮秋風 洞庭波兮木葉下。
登白薠兮騁望 與佳期兮夕張。
鳥何萃兮蘋中 罾何為兮木上?
沅有芷兮澧有蘭 思公子兮未敢言。
荒忽兮遠望 觀流水兮潺湲。
麋何為兮庭中 蛟何為兮水裔。
朝馳余馬兮江皋 夕濟兮西澨。
聞佳人兮召[余字點去]予 將騰駕兮偕逝。
築室兮水中 葺之兮荷蓋。
蓀壁兮紫壇 匊芳椒兮成堂。
桂棟兮蘭橑 辛夷楣兮葯房。
罔薜荔兮為帷 擗蕙櫋兮既張。
白玉兮為鎮 疏石蘭兮為芳。
芷葺兮荷屋 繚之兮杜衡。
合百草兮實庭 建芳馨兮廡門。
九嶷繽兮並迎 靈之來兮如雲。
捐余袂兮江中 遺余褋兮澧浦。
搴汀洲兮杜若 將以遺兮遠者。
時不可兮驟得 聊逍遙兮容與。
筆者が漢文に触れるようになったのはごく最近のことなので、さすがにこの和訳はギブアップだが、どうやらこの対の詩は『湘君』の方を男性に例え、『湘夫人』との熱い恋慕の情を綴ったとする見方もあるようだ。
なるほどその方がロマンチックで美しい。
そして二人の愛はこの詩によって永遠の時を刻む──。
湘君「メトロポリタン美術館」CC0ライセンス http://www.metmuseum.org/information/terms-and-conditions
湘君「メトロポリタン美術館」CC0ライセンス http://www.metmuseum.org/information/terms-and-conditions
つまり“湘江”が江戸と横浜のことでなく中国の川の名なら、『湘江煙睹方愁絶』は「“湘君”と“湘夫人”の幻を思い描いて憂いを絶つ」と読むのが普通で、直虎は、自分と俊を湘君と湘夫人に重ね合わせ、密かな熱い情熱を詩に込めたというのはあながち考え過ぎとも言えなくもない。
新婚ホヤホヤの夫婦(二人はこの年の2月に結婚している)にして、むしろそう読むのが自然ではなかろうか。
なにやら直虎の仕組んだ迷路に惑わされているような気持ちである。
最後の『惟覚英光射四辺』も『英光』を、当時の直虎が情熱を傾けていた「英学」の「光」と読めば、「西洋化をもって辺りを照らす日の事を夢見ている」といった意味になり、妻の俊と藩の西洋化の二つに希望の光明を見出している非常にポジティブな歌へと即座に変貌するわけだ。
『私のことは天だけが知っている。人を尤がめ天を怨むのはやめよう
それは光り輝く三体千字文に抗うようなものだ
常に諳んじている賢人の知恵に逆らい天狗党征討を断った
天皇が退位したら禁裏に己の枯骨を曝そうか
それにしても俊のさげ髪が美しく、いろいろ考える前に夜の帳が降りるのが待ち遠しい
湘君と湘夫人の幻を思い描いて憂いを絶つ
叒たる私には夢がある。英知の光で世界を照らそう』
最後の行に若干創作を加えたがこんなところか。
この『俊髦』『湘江』『英光』の3つをどう読むかで、陰鬱な気持ちなのか楽観的な気持ちなのか大きく二つに別れ、これは直虎流の高度な言葉遊びとも見える。
あるいは、表面上は単に閉門の身となった憂鬱な心情を表現しつつ、文の底には俊との甘い生活と果てしない希望を隠したのかも知れない──。
そう気付いたとき、辞世の歌と同じ仕掛けの妻への思いが、筆者の確信となって物語「燎原ヶ叒」の大きな柱となったのである。
表面上はクソ真面目でいて、実は茶目っ気に満ちた須坂藩主の大いなる人間の魅力が感じられてならない。