2018年8月11日
今回からは郷土史に関わるお話しなので、幕末の大局観からは少し離れることになります。
直虎が藩主になって最初に取り組んだ大藩政改革。
当主として藩内における悪徳政治家およそ40人を一斉処罰し、秩序を乱した政治を抜本的に改革したのですが、直虎の正義感というか和魂漢才に基づいた信念を如実に顕した事件とも言えます。
その発端は名もない一人の農民(民蔵といいますが)の勇気ある告訴でした。
いつの世も権力というのは恐ろしいものです。
その権力に立ち向かった民蔵を讃えるとともに、権力を持った側の人間はよくよくそのことを学ぶべきだと思ってしまいます。
最近「水戸黄門」のような勧善懲悪をテーマにした時代劇など皆無になってしまいましたが、それほど善と悪との区別がつきにくい世の中なのだと思います。
その結果として、法律に基づかないと秩序が保てなくなっているのでしょうが、法や規制が厳しくなりすぎると、その代償に「人の心」というものが委縮してしまうように思えてなりません。
ともあれ、こうした史実が全国的にはどのくらいあるか知りたいところです。
018年8月25日
今回は、江戸は南八丁堀の須坂藩上屋敷へと舞台が移りました。
この須坂藩の江戸屋敷がどこにあったかという疑問ですが、特に下屋敷がどこにあったかということで悶々としております。
というのは以前このFBで書いた『【ひょっとして新発見!?】須坂藩江戸藩邸はどこにあったか?』という記事の中で、弘化3年(1846年)1月15日の江戸の大火発生時に亀戸に須坂藩の屋敷はなかったと結論したのですが、9代藩主直晧の歴任期間の『武鑑』で(歴任期間天明4年(1784)~文化10年(1813))、下屋敷の在所が「本所さる江 亀戸川はた」という記録を見つけてしまったのです。
加えて、二葉堂さんの副社長様にお会いする機会がありお話しを伺うと、文化年間創業の同社は亀戸にあり、須坂藩御用達であったことを知ったのでした。
従って、弘化3年の大火時になかった亀戸下屋敷は、天明・文化年間には亀戸に存在していたということになります。
これはいったいどういうことでしょう?
直晧が隠居した1813年~弘化3年の大火1846年の間に発生した火災により焼失してしまったと考えるのが普通でしょうか。
それほど江戸は火災が多かったのです。
(図2)NHKスペシャル「シリーズ大江戸第3集」より引用
ネットで調べてみますと該当する大火はいくつかあるのですが、燃え広がった地域で亀戸およびその周辺の地名を見つけることができませんでした。
そしてNHKスペシャル「シリーズ大江戸第3集」でも江戸の火災が扱われていましたが、その中でこんな場面を見つけました。(図2)
見ますと1820年頃でしょうか、深川方面に燃え広がっています。
ところが須坂藩下屋敷があった場所には影響していませんね。。。
町火消というものが制度化されたのが享保の改革(1720)以降で、これにより「いろは48組」ができ、須坂藩下屋敷のあった本所・深川にも16組の町火消が設けられました。
いずれにせよ江戸に火事が多かったことは確かです。
もしかしたら記録に残らない小さな火災で屋敷を焼失したということも充分考えられます。
結局、筆者はさじを投げてしまいました。(笑)
2018年9月8日
須坂藩邸上屋敷
八丁堀の「ドブ湯」と「柳橋」が出て来たので、江戸の話を少し。。。
八丁堀に「七不思議」と言われるものがあって、そのひとつに「ドブ湯」があります。
もともとは足だけを洗う場所でしたが、やがて風呂屋になったものだそうです。
ところがその女湯には“刀掛け”があった。
なぜかというと、与力や同心たちが早朝から風呂に入りに来たからでした。
これは「女湯の刀掛け」という不思議です。
朝の時間帯は家事などに追われる女性たちが入浴することはなく、おまけに隣りの男湯での噂話を盗み聞きするのに都合がよかったからです。
別説では、与力や同心たちの家にはお風呂がない者が多く、プライドの高い彼らは町人と一緒に湯を浴びるのを避け、町の女性たちがいない朝に入ったからだと言います。(笑)
捕り物帳時代劇の情緒が伝わってきますね。
次に柳橋です。
神田川の最下流に架かる橋の名で、隅田川との合流点であり、船荷や納涼船、あるいは吉原へ通う舟で賑わう江戸水上交通の要所でした。(行ったことはありませんが・笑)
橋の周辺は船宿や待合茶屋や料亭などが軒を連ね、訪れる者は会席料理やお酒を楽しみながら、狂歌会や句会、あるいは書画などを買い求め、江戸文化興隆の役割も担っていました。
そして、粋な柳橋芸者が行きかう花町でもありました。(会ったことありませんが・笑)
江戸の花町といえば真っ先に吉原を思い浮かべますが、対して柳橋芸者はアッサリして趣があり、媚びることなく、江戸芸者の正統として日本橋周辺のVIP達から厚い支持を得たと言います。
もともと江戸の花町の中心は深川でしたが、天保の改革(1830~43年)の際、水野忠邦の取り締まりによって芸者たちは深川から吉原・柳橋へと移り住んだのだそうです。
彼女たちも生きるのに必死だったのですね。
夢でいい 主と朝寝し 柳橋(おそまつ・・・)
018年9月15日
直虎の御近習に柘植宗固(つげむねかた)という家臣がいたらしい。(出典『碧血録』)
筆者はこの人物を忍者の末裔という設定に仕立て上げました。
なぜなら、筆者は日本の歴史における忍者の存在に大きな魅力を感じているからです。
幕末に忍者とはやや唐突に思えるかも知れませんが、この頃の長州はじめ他藩の動きなど精細に調べていくと、動乱の影にうごめく諜報者らしき存在の気配を感じます。
そして、直虎が大藩政改革を行った頃の“ちょぼくれ(俗謡)”が須坂に残っていますが、その中にこんな一節があります。
『(前略・文久元年秋ごろに新しいお殿様が)四書にあるよな大覚どのとか御世話なさって立派にのりだし、隠密まわして家中の曲者・町役見届け・・・云々』
“隠密まわして”です。
忍者好きの筆者は『水戸黄門』の助さん格さんを思い出したのでした(笑)
忍者といえば『真田十勇士』の猿飛佐助や霧隠才蔵を真っ先に思い浮かべますが、この小説にそんな存在を登場させ彩りを添えようと思ったのです。
高校時代に忍者小説を書いたことがありますが、伊賀に柘植という名字があるのを知っていました。
そして直虎家臣の柘植宗固の名を見つけたとき、「こいつは忍者に相違ない」と疑いませんでした(笑)
この“宗さん”が物語にどのような影響を及ぼしていくかは未定ですが、忍者が活躍の場を失った江戸という泰平の世の中で、彼らはどんな思いで生活していたのか非常に興味深いところです。
2018年9月22日
江戸時代の米相場
今日は直虎の持ち金の話題が出て来たので、幕末のお金の価値のお話しをしたいと思います。
この時代の小説を書くにあたり、当時の貨幣価値はどれくらいだったかを理解することは、非常に頭を悩ます難題です。
大枠から話をすれば、当時の日本では「金貨」「銀貨」「銭貨」の3種が流通しており、一般的に江戸では金、大坂では銀が使われ、いわば日本国内でドルやユーロや円が混在しているといった様相で、日々交換比率が変動します。
加えて単位も「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」「文(もん)」「匁(もんめ)」などあり、「なんじゃそりゃ!」となるわけです(笑)
しかも、日米修好通商条約により1ドルが3分(一分銀3枚)と決まり、日本経済に外国が介入してきたことにより、ますます複雑さを増します。
こんな複雑なお金の流通のしくみを日常的にこなしていた日本人って天才だと思いませんか。
実は当時の物の価値は、こうしたお金よりも「お米」の方に信用があったといえます。
現代は「何よりもお金が大事」という風潮がありますが、江戸以前はお金がなくても生きていけるが、お米がなければ生きていけないという切実な現実問題と隣り合わせだった。
つまり大名の規模を示す「石(こく)」というお米の単位こそ、もっとも正確な捉え方であり基準であると言えると思います。
では1石とはいったいどれくらの価値があるのでしょう?
一番単純な捉え方は、成人1人が1年間に消費するお米の量と考えればいいでしょう。
つまり須坂藩は10,053石ですから、おおよそ年間1万と53人ほど養える規模の国と言えます。
ところがお米は農作物ですので、その年の天候によって不作・豊作がつきまとい、しかも地域によっても穫れ高が異なるため、その価値は極めてあいまいです。
不作だったからといって国の人口を減らすわけにいきませんし、となると領民は空腹に耐えて年を越すより仕方ありません。
庶民の中に豊作を願う信仰が生まれたのは、人間の無力さを知るところから出た、自然に対するごく当然の畏敬だったのですね。
近年の自然災害の多さを耳にするたび、現代人の傲慢さを感じてしまいます。
話がそれましたが、1石を現代の貨幣価値に換算するといくらかということですが、1石が1両で1両が4万~10万円だと言ったり、いやいや幕末は1石は2両くらいだとか、これまた堂々巡りでよく分かりません(笑)
結局、お金でしか価値をはかれない現代人には理解できない尺度が江戸時代にはあったのではないかと思ってしまいます。
文久より時代が進むとますます経済が混乱していき、世情の不安から米を買い占める者が現れ米価の高騰を招き、蔵の打ちこわしなどの暴動まで起きて貨幣価値が著しく低下していきます。
文久年間のこの小説の中では、1朱銀1枚と小銭数枚で数千円程度としましたが、正直言って妥当かどうかはわかりません。
後に生糸取引の話も出て来るのですが、世の中の経済の仕組みやその本質が、いまだによく理解できない筆者なのであります。