小説・堀直虎 燎原が叒


勝海舟『解難録』の「掘直虎自刃」《その1》

 

慶応4年1・2月付近の一連の記述からの考察

 

堀直虎乱心説の元凶となっている勝海舟の『解難録』の原文を見てみましょう。


「一五 掘参政自匁 明治元年戊辰
正月末に至る衆議沸々日夜間断あるなく諸官手を措くに所なし唯心裡に憂苦し面に顕れ形に兆す参政堀右京亮は善良の質其の煩と憂苦に不堪鬱々として面色甚悪敷外見漸発狂せむとするが如し予諸参政に云て曰く宜敷注意すべしと某日暁に到て雪隠に入る暫時にして一叫す衆往て是を見れば既に喉を貫き爰に死す衆愕然たり予諸官に告て曰吾人も亦如斯なるべし唯遅速ある而已何ぞ死を促すの速なる哉従是諸官大に沈着し浮躁の風止む」(『海舟全集第九巻 解難録』(p343)より)


そもそも『解難録』は、「偶旧篳中(たまたま古い葦簀(よしず)の中)を探りて解難の書数葉を得たり。此に録して他日の考証とす」と前書きにあるように、維新前後に勝海舟自らが事に当たって処理したものを58項目に渡って記したものです。
題号が「解難」とあるとおり、彼自身が苦労したことや死んだ人間のこと、あるいは理解し難い出来事などが書いてあります。
それにつけても自刃したのが「参政堀右京亮」とは、その名前からして間違っていますね。(笑)
堀右京亮というのは、この頃いた人物では越後椎谷藩第13代藩主の堀右京亮之美(須坂藩堀氏の遠い親戚)ですが、彼はこの年の3月3日に江戸を出て帰国している記録があるそうで、そもそも参政ではありませんので彼でないことは確かです。
この名前を間違えていることから不思議です。
というのは彼の別の書である『吹塵録』や『陸軍歴史』にも「堀内蔵頭」の記載が見られますから、直虎のことを知らなかったはずがないと思うからです。

 

『開国起原』の付録(幕末の頃の幕閣の名と略歴がずらりと書いてある)にも、若年寄の一番最後に「堀内蔵頭直虎」の名が見えますが、没年については「慶応4年2月自尽」となっており、2月というのは届けのあった月と考えれば納得がいきますが、この月に“自尽(自刃)”ですから少しひっかかるところです。(あるいはこれらは弟子に全部やらせ本人は何もしなかったか?)

 

では初めに『解難録』の原文を現代にわかりやすく書き直してみましょう。

 

『解難録15 掘参政自刃 明治元年
正月も末になった時の事である。
衆議は絶え間なく沸き立ち、諸官は休んでいる暇もない。
ただ心中の憂え苦しみが顔や姿に現れはじめた。
参政堀右京亮(内蔵頭)直虎は善良な男である。
その煩いと憂苦に堪え切れず、苦悶して顔色は甚だ悪い。
その外見はもはや発狂するのではないかと思われた。
俺は諸参政に云ったんだ「みんなも注意しろよ」と。
ある日の明け方(彼は)雪隠(便所)に入った。
しばらくして大きな叫び声が聞こえた。
みな駆け付けて見れば、すでに喉を貫いてそこで死んでいた。
みな愕然とした。
俺は諸官に告げたんだ
「他人事ではないぞ。ただ早いか遅いかだけのことだ。どうして死に急ぐのか」と。
諸官は私の言葉に大いに落ち着いた。』

 

いかにも勝大先生らしい表現ですネ!(笑)
それにしても直虎が善良な男であると知っているくせに、ふつう名前を間違えます???(笑)
ここで注目しておきたいのは、直虎が自刃したのが「1月末」「ある日の明け方(某日暁)」と記している点です。
直虎が諌死したのは、時刻までは分かっていませんが(この記述が正しければ明け方ということになりますが)、1月17日であることは確かなことです。それを現場で目撃したはずの筆豆な彼が、なぜ「1月末のある日」というようなあいまいな言い回しをしたのでしょう?しかも『開国起原』付録には「2月自尽」とあるにも関わらず。。。
「たまたま古いよしずの中を探って得た」「解難の書、数枚」の中のその1枚にはそう記されていたのか?あるいは日付が記されておらず、遠い昔のあやふやな記憶を思い出したからでしょうか?
そこで『海舟全集(全10巻)』を調べてみることにしたのでした。

 

まず最初に驚嘆したのはその内容の膨大さと緻密さです。
諸国の人口や石高、諸藩の情報、陸・海軍の歴史や貨幣の変遷は端から、書状の中身や事柄に関わった役員の名前まで、彼の周りのありとあらゆる事象や出来事が、しかも図入りで記されているではありませんか!
まさに幕末の大百科事典です!(スゴイ!)
筆者がやっと見つけた須坂藩の上屋敷の所在地も、最初にこの書を読んでいればあれほど苦労することはなかったのです。(笑)(※『
須坂藩江戸藩邸はどこにあったか?』)
この書ありて幕末の様子がつぶさに後世に伝えられたと言っても過言ではありませんね。
勝海舟が幕末の英傑に数えられるのも納得できました。
と、感心している場合でありません。(←暗殺を企てた勝海舟に弟子入りしてしまった坂本竜馬の心境?でもあの逸話は贋作でしたっけ?笑)
手始めに『海舟日記』を紐解いてみました。
分かりやすいように慶応4年の1月から2月にかけての内容を、記述通りの時系列で箇条書きにしてみます。

 

『海舟日記』慶応4年1月・2月(※記載通りの時系列)

 

慶応4年正月 京都での不穏な知らせが入り乱れ、江戸から兵を送り、それを討とうという説が激しい。民心が離れている。(←1月全体の概要)
同11日 (慶喜が乗った)開陽丸品川に帰港、初めて伏見での顛末を知る。
〇同17日 夜、俄かに海軍奉行並を命ぜられる、さらには京都からも。
〇18日 越前を介して参与へ一書を呈進する。
同22日 公議集会を開くべきと建言する者がいた。
◎同23日 夜中、陸軍総裁と若年寄を仰せ付けられる。
同26日 フランス公使と面談。
●2月1日 伏見から帰還する兵の様子縷々。
【この時の閣老】
上座……松平周防守、小笠原壱岐守、井上河内守
海軍・陸軍総裁……稲葉兵部太輔、松平縫殿頭
参政……浅野美作守、平山図書頭、立花出雲守、京極周防守、◆堀右京亮(内蔵頭・ここでもやはり名前を間違えている・笑)、松平左衛門尉
時の権威ある司農……◇小栗上野介、小野友五郎これら数人
その議論の様子縷々。
2月 官軍江戸に進攻、様々な言い分が入り乱れている。(←2月全体の概要)
同17日 越前家老本田修理に従って上国参与に一書を呈進。
2月11日 慶喜新しく命じた総裁を呼んで寛永寺に移居し、謹慎の旨を聞く。各総裁の名列挙。
◎1月23日夜中 徳川家新人事とその名列挙~所感縷々。
(かなり飛んで)
10月23日……
どうですか?私はおかしな点をいくつか見つけましたヨ。
ポイントになる部分を〇、特に重要と思われる箇所を●・◎で記してみました。

 

【1点目】

時系列で言うと、2月に入って17日まで順序正しくつづられていたものが、2月11日、更には1月23日と日付が逆行している点。前の◎1月23日には、夜中に陸軍総裁、若年寄を仰せ付けられたという記載をしているにも関わらず、改めて1月23日の内容が記されています(加筆している)。更に、●2月1日の内容が記された後に2月全体の概要が記されているのも変です。

 

【2点目】

間違いがぬぐえないのが●2月1日の記述です。しかも2ヶ所あります。
一つ目は直虎が自刃したのは1月17日ですから、2月1日に名前が記されているのは絶対におかしい点です(◆)(しかも名前を間違えて・笑)。直虎自刃の日付と『解難録』の内容を知っている者にとっては、殊の外不思議に思えてしまいます。(つじつま合わせの疑い)
二つ目は、◇小栗上野介は1月15日の時点でお役御免を言い渡されていますのでこの場にいるのはおかしいですね。
日付と内容が大幅に一致しないのはこの●2月1日の記述だけで、その前後の日付は正しいのです。

 

【3点目】

同じく●2月1日の記述では激しい議論の様子が描かれています。ところが内容には主戦論の内容とその中心人物の名まで記されていますが、その中に、2月1日にはいないはずの小栗上野介のほか、慶喜に失望して隠居したはずの水野癡雲の名もあります。(日付の間違いは明らか)
それにしても彼らの論を「大言して算なく」と豪語している点は、いかにも勝大先生らしいですね。(笑)
明らかにこの期間の日記が、内容も含めて不自然です。

 

全般的に『海舟日記』には、何月何日に誰々が訪問して来たといった細々とした出来事まで明細に記録してあるのですが、直虎の自刃には触れてさえいません。
もう一つ●2月1日の記述で気になる点は、伏見惨敗の歩兵たちが陸続と紀州より着船して不平不満を述べている内容の部分です。
“着船”と書いていますから船で帰って来たのは明らかですが、大阪から江戸まで船での移動日数は、慶喜は6日の夜に大坂を逃亡し11日に江戸に着いていますので片道正味5日です。(実際は艦長(榎本武揚)の不在と諸外国船との交渉のゴタゴタで出航できたのは8日の午前中らしい。)開陽丸の上限乗員数は500名ですので、往復で8~10日かかるとして、遅くとも1月21日には残兵たちも江戸に着いたはずです。加えて大坂の残兵にしてみれば、船が再び大坂に戻って来るまで待つほど悠長にはしていられないはずで、開陽丸以外の船で戻って来る者や、陸路を15日かけて帰東したとしても1月の中旬から下旬には江戸に着いていたはずです。それが2月1日というのは、おかしくはありませんが少し遅い気がします。
何を探っているかというと、この慶応4年の2月1日という重要な時期における記述は単なる日付の間違いなのか、それとも意図的なものなのかということです。
そこで更にもうひとつ、勝海舟著作『清譚と逸話(『氷川清話』の原本)』の中の「死生一髪を覚悟す」という慶応4年初頭あたりの回想録を見てみたいと思います。
こうあります。

 

「戊辰の変は、おれは町奉行の知らせによって、幕閣よりも一日早く承知したけれど、おれは常時閑居の身だったから、意見を進める機会を得なかった。翌日になって、いよいよ幕閣に知れ渡ると城中鼎(かなえ)の沸くようだった。それは祭りさえ騒ぐ江戸っ子の事だから、江戸の騒ぎも大抵察せられるだろう。この時幕議では、事の起こりが少々の行き違いだから、大した事もあるまいとの説だったけれども──」(海舟全集 第10巻『清譚と逸話』p342)

 

論点がだんだん搾られてきましたね!
直虎が諌死したのは17日なのに、それを勝は日記の中では2月1日に「見た」と言っています。
これは明らかに間違いですので、問題は17日以前に勝は江戸城にいたか?が焦点です。
ちなみにそれまでの勝(17日に海軍奉行を受ける前)は、およそ1年前、長州との講和を実現するため芸州へ行き長州を説得して帰って来ましたが、幕府はそれを無視して第二次長州征討を実行したたため、面目をつぶされ長州を騙す形になった勝は、ふて腐れてお役御免を願い出て江戸に帰っていました。
回想録では「常時閑居の身」と言っている通りです。
その彼が町奉行から鳥羽・伏見のことを聞いたのが、「幕閣より1日早い」と言ってますから1月10日ということになります。(“幕閣”とはどのへんの人を言っているのか分かりませんが、日記では11日となっています。)
(※ちなみに直虎は9日に辞世を詠んでいますから、おそらく勝より更に早い段階で戊辰戦争の事を知ったのではないかと考えています。すでに10日に町奉行が知っていたとしたら、そう考えてもけっして不思議ではありません。そのあたりはまた考えをまとめてから。。。)
さて、この10日から17日の間に勝は城に登ったのでしょうか?
「幕閣より1日早く知った“翌日”……うんぬん」ですから、きっと翌日に登ったのだろうと思われます。
ところがこの文章では、「いよいよ幕閣に知れ渡ると城中鼎(かなえ)の沸くようだった」と書いておきながら、読み進めていくと「この時幕議では~大した事もあるまいとの説だった」と前の内容を否定する形になっています。
要するに、先に触れている「城中鼎の沸くよう」というのは、幕閣に知れ渡ってから数日後のことで、城中よりむしろお祭り好きな江戸の庶民のことでしょう。
文脈通りだと次の「この時幕議では~大した事もあるまいとの説だった」は、事象の順番としては逆でなければつじつまが合いません。
しかも「事の起こりが少々の行き違いだから、大した事もあるまい」ですから、「抗戦」か「恭順」かで激しく議論する様子は全くありません。
もし彼が直虎を目撃していたとしたらこの時なのですが、城内は全く危機感を抱いていませんから、『解難録』の「発狂せむとするが如し」は明らかに言い過ぎであり(というか本当に見たのかさえ疑わしい)、加えて“雪隠”ですから、直虎に対して何か悪意に似たものを抱いているのではないかとさえ感じてしまいます。

これは回想録ですので文脈の矛盾は問題にしませんが、こう書くことによって『解難録』の記述に、結果的に真実味を帯びさせる効果を生んでいることは否定できません。もし意図的だったとしたら、この巧みな文章トリックを使って、別の何かを主張したかったのではないかと考えるのです。(《その2》のテーマ)

これらの疑いを決定づけるのは、『海舟日記』の1月18日呈進書の内容が記された直後の補足部分です。
そこには、京都にいる越前藩主松平春嶽に書状を届けるに当たる経緯と言ってよい内容が記されています。

 

『この日(18日)、嘆願書を持参すべき者は諸官たちに建言し、俺が「(書状の内容を)然るべきだ」と云ったら、閣老はこの議を命じて、即時上京するようにと答えた。
けれどもある人が、
「もし安房(勝)に使いを命ずれば、その旨を達せることができるだろうが、今彼は抑留中で、それはできない(『抑留せられ、其不可なり』)。かといって別の人に頼むにはおよばない」
と、その夜すぐに、後宮(大奥)より使いの何某という女中が来て御免仰せ渡たされた。』

 

京行き却下の知らせが来たのが18日の夜ということですから、書状が福井藩の家老に渡るのは、更に遅れて19日以降ということになりますね。
この文から分かることは、

 

1.このとき勝海舟は『清譚と逸話「死生一髪を覚悟す」』でも「意見を進める機会を得なかった」と言っている通り、慶喜帰還(11日)の前から海軍奉行並拝命(17日夜)までの間は“抑留”の身であり自由がきかなかったこと、
2.更に、18日時点では建言するにも諸官を通さなければ叶わず、ようやく面会することができた閣老が勝の勢いに押されて一旦は京行きを認めたものの、ある人の横槍によって結局届け出が却下されたこと、
です。

 

ですので、『解難録』で記される「宜敷注意すべし」や「吾人も亦如斯なるべし」といった高みから上役を見下ろすような発言をしたとしたら、この呈進書を届け出た時で(あるいは海軍奉行並を言い渡された時)、その際堀内蔵頭直虎の諌死のことをはじめて知り、口走ったものではないかと考えられます。(もし海軍奉行並を言い渡された時だとしたら、直虎自刃をきっかけにして呈進することを思い立ったとも考えられる。)
そして『解難録』の「何ぞ死を促すの速なる哉」は、生涯自刃を真っ向否定した自己肯定意識過剰な彼の、後に付け足した一文ではないかと推測するのです。
このことも踏まえ、以上の間違いや食い違いが重なるこれらの記述を総じて考えてみると、慶喜が江戸城に入った12日から直虎諌死の17日までの間で、江戸城内で行われた激烈した論議が飛び交う様子を、勝海舟は見ていなかったと推察されます。
そうなると当然直虎自刃を目撃するなどあり得ません。

 

【論の確認】

1.『解難録』の内容が非常に具体的であるに関わらず、直虎の名前を間違え、加えて日付が曖昧である。
2.『海舟日記』2月1日の内容が詳しい割に、直虎の名前を間違えている上に日付も間違えている。
3.『清譚と逸話』では幕議の様子の順序が文脈上逆に書かれており、彼が江戸城内で見た光景には全く緊迫感がない。
4.『海舟日記』18日呈進書の補足部分から、彼は直虎諌死の17日は抑留中であり、諸参政や諸官を諭せるような立場でなくその場所にもいなかった。
以上4点から、日記の2月1日の記述はつじつまを合わせるための意図的なものであり、筆者は次のように結論しました。

 

【結論】

『解難録』の「掘参政自刃の項」は、筆者勝海舟が、堀直虎が諌死した際、江戸城中にいなかったにも関わらず、「発狂せんとするが如し」「雪隠に入る暫時にして一叫す」と、他者から聞いたであろう又聞きの話を、あたかも自分の目で見たかのように記した贋作である。
勝海舟の書き残したものには他にも、ところどころにこういった自分の功績を引き立たせるための嘘やハッタリが紛れているかも知れませんね!(笑)
勝海舟のファンの方、ごめんなさいネ。。。(実は筆者も嫌いではありませんが・笑)

 

《その2》につづく

 

 

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