column-09 糸縒りの娘
須坂藩の参勤交代
2019年6月15日
直虎が藩主となって初めての帰藩です。
これよりしばらくは、江戸から須坂に舞台を移してのストーリーになります。
須坂藩参勤交代ルート
最初の項は「糸縒りの娘」。
須坂は明治より製糸の町として栄えてきましたが、直虎が藩主だった頃はどうだったかを探っていきます。
現在は『蔵のまち』というキャッチコピーで地元のPRをしていますが、この蔵とはすなわち繭を貯蔵しておく『まゆ蔵』なんですね。
直虎が藩主だった幕末に、「糸師」と呼ばれる生糸職人や生糸商人が急増していることに着目して物語は展開していきます。
さて直虎は、極度の財政難に追い込まれた須坂を救うことができるのでしょうか?
下の地図は、参勤交代や須坂の人が江戸との行き来に使った街道を表したものです。
面倒くさいので宿場をつなぐ道を直線でつないでしまいましたが、大笹街道を経由する道程は、碓氷峠や鳥居峠、そして菅平を越える難所続きの険しい道が続いていたことでしょう。
直虎、生糸殖産の国を構想
2019年6月29日
須坂陣屋跡
今回は須坂陣屋の話が出てきたので、そのあたりを少し。。。
須坂藩陣屋は須坂藩の館(やかた)とも呼ばれますが、現在は須坂小学校が建つ辺り一帯にありました。
その片隅には今は奥田神社があり、直虎と堀家初代直重が祀られ、学問や武芸(スポーツ)にご利益があるとされます。
敷地内南東に立つ「鐘楼」は、8代直郷(なおさと)が造ったもので、当時の面影を残すものは、この鐘と、あとは小学校敷地の北側に連なっている石垣だけです。
この内側に今は柔道場と剣道場があり、筆者は昔柔道を習っていて、すぐ近くのかんだ山を登って体力をつけたことを思い起こします。
またこの石垣は、須坂市立図書館南側の細い歩道に沿ってあり、たびたび調べものに行っては江戸の昔に思いを馳せたりしています。
そういえば以前、須坂市立博物館の脇に須坂陣屋の屋根の一部が展示してあったのですが、さっき見に行ったら(笑)どこにも見当たりませんでした。
まさかあんな貴重な財産を破棄してしまったなんてことはないと思いますが、いったいどこにいってしまったのでしょう?(とても気になる……笑)
小説は、これからしばらくは須坂を舞台に物語が進みます。
もし須坂での直虎秘話などご存知の方がいらしたらぜひ教えて下さい。
できる限り小説に反映できればと考えています。
※写真は筆者撮影
直虎、外国貿易に活路を見る
2019年7月6日
須坂陣屋見取り図
須坂の製糸産業の発展は、明治に入ってからが顕著になりますが、直虎が藩主だった幕末はどうだったのか、筆者の関心はそこにあります。
直虎が生糸殖産に関わったことを示す史料はいまのところ出ていないようですが、そのころの糸師の数の急増を考えると、関わっていないと考える方が不自然に思えます。
もともと須坂領内における桑園の奨励は藩が進めてきた事業です。
思い起こせば、筆者が幼少の頃は、今はリンゴ畑やブドウ畑が植えられている場所が全て桑畑でした。
小中学校に通う何キロの道が桑畑の中にあったという感じです。
加えて横浜開港によって、外国貿易という新たな機会が、直虎の目前に厳然とあったことも事実です。
さて、わずかな知恵があったとしたら、そこで何を考えるでしょう?
須坂の製糸産業の大発展は、明治に入って突然発生したような不自然なものではないはずです。
さて、前回少し触れた須坂陣屋の見取り図が出て来たので参考資料として掲載しておきます。
元和2年といいますから江戸初期のものですが、幕末までさほど大きな違いはないと思います。
直虎、可憐な少女と出会う
2019年7月13日
今回は善光寺地震の話題に触れたので、そのあたりを少し。。。
その昔、地震はナマズが起こすと考えられていたようですが、どこからそのような発想が生まれたのでしょうかね?(笑)
善光寺地震は今から172年前の弘化4年(1847)3月24日に起きた、長野県北部を震源とした直下型の大地震です。
その規模は推定でマグニチュード7.4とされ、死者1万人以上、消失家屋2000~3000戸といわれる大規模なものでした。
「信濃国大地震(東京大学大学院情報学環所蔵)」という瓦版には、その様子が生々しくこう描かれています。
『このたび弘化4年3月24日亥の刻より、信州水内郡の辺より前代未聞の大地震にて、山を崩し、水を噴き、火焔は天地をくらまし、人馬の損ずる事おびただしい。焔獄他所にて、かの地、縁類の者安否を尋ね、嘆き悲しむ者少なからず。(略)まず善光寺の辺、殊に甚だしい。それ地震というより早く震動成し、大山を崩し川を埋め、土中より火焔のごとき物ふき出し、御殿宝蔵寺中町屋は申すに及ばず。あるいは潰れ、あるいは大地にめり込み、大盤石に撃たれ、僧俗・男女老少の死人あげて数えがたく、あまつさえ地火八方に散り、不残焼亡し、27日まで水火に苦しむこと筆舌に尽くし難し。(後略)』
須坂のとなり小布施あたりも『昼夜ゆり動き』とあり、別の「信越大地震(同所蔵)」という瓦版にも、
『3月陽気過度なること数日、24日夜四ッ時より、山鳴り震動成し、善光寺の辺、別して強くこれ地震とより早く大山は崩れ落ち、水はあふれ、地中鳴動なすより、五寸一尺または五尺一丈と大地裂け、黒赤の泥を吹き出し、火炎のごとき物燃えあがり、御殿宝蔵寺中18ヶ町の人々は押し潰され、大地にめり込み、男女老少の泣き声天にひびき、殊に夜中といい逃げ迷ひ、大石にうたれ、谷川にはまり、狼狽大方ならず……うんぬん』
とあります。
しかもこちらには須坂の様子が書かれています。
『高井郡の丹波川の東にて須坂御城下中島御陣屋川へりの村々、福島、高梨、中島、別府、飯田、羽場、くり林、大俣辺より田上、岩井、安田、坂井等、強く震い家を倒すこと少なからず』
と。
昔の人は表現がうまいというか、現代の報道は映像に頼りすぎているためか、これほど危機迫るニュースを聞いたことがありません。
なんとも震災の恐ろしさが目に浮かんできます。
折しもこの年は善光寺の御開帳で、諸国参詣の男女がこの災難に遭遇し、途方に暮れたまま2百人余りが押し打たれて即死し、懸命に御仏に命乞いする者が780余人いたと書いています。
鯰絵(なまずえ)
この善光寺地震の7年後には、伊賀上野地震・安政東海地震・安政南海地震と、さらに翌年の1855年には安政江戸地震と、死者が数千におよぶ大地震が相次いで発生していて、現代における東北の大震災に始まる一連の震災・自然災害の発生とよく似た現象が起こっていることがわかります。
やはり地震の連鎖反応というか、周期みたいなものがあるんですね。
左の鯰絵(なまずえ)は、安政の江戸地震以降、江戸の庶民が身を守る護符として、あるいは不安を除くおまじないとして買い求めたといいます。
なんとも、不安や恐怖をもユーモアに変えてしまう江戸っ子の粋な力強さが伝わってきます。
最近の日本は、こうした災害に敏感になっていますが、他人事ではありません。
しかも自然災害だけでなく、核兵器の脅威にも怯えながら生きなければならない昨今です。
自分の身は自分で守れと言いますが、核爆弾が落ちてきたらいったいどうやって?
やはり普段から善根を積み上げていくしかありませんね!(笑)
※写真は鯰絵「しんよし原大なまづゆらひ」・Wikipediaより転載
直虎、養蚕体験に汗流す
2019年8月3日
今回は糸師の仕事の様子を書きましたが、文章だけでは解りづらいと思いますので少し図解します。
製糸といえば富岡製糸場を思い浮かべてしまいますが、かつての須坂市も製糸の町として負けないくらいの繁栄を極めていたでしょう。
しかし江戸後期の頃といえば、まだまだその繁栄の緒についたばかりで、大きな工場というものはまだなく、問屋制家内工業というような生産体系で、糸師の家では娘さんが手動の座繰り機を回して生糸を作っていました。
座繰り機
上州座繰り
出典:農林水産省Webサイト(http://www.maff.go.jp)
座繰り器というのは、4つの歯車を回して繭から糸をとる機械で、把手を1回回すごとに繰枠(くりわく)が4、5回回転する仕組みになっていて、繭を鍋で煮ながら左手で把手を回し、右手で接緒(せっちょ・繭に糸口をつける作業)するのだそうです。
幕末期に発明された上州式座繰りというのは、把手を1回回すと小枠が約5回転し、しかも繰糸能率を向上させるため小枠を2つにしたため、かなりの技術が必要だったようです。
上の写真は明治5年に描かれた「養蚕手びき草」という絵ですが、少し判りづらいですが右下に描かれているのが糸縒りの様子で、繰枠が2つありますからこれは上州座繰りでしょうか?
ところがこの上州座繰り、作業者の技術の方が追いつかず、かえって生糸の品質を落としてしまう結果を招き、やがて次第に使われなくなるそうです。
物語に登場するお糸ちゃんは、相当の技術者というわけですね(笑)
やがて海外から大量生産ができる機械が輸入され、明治に入ってから日本の製糸産業は空前の繁栄期を迎えることになります。
葛飾北斎の「養蚕・紡績の図」
出典:文部科学省ホームページ
https://www.nier.go.jp/library/rarebooks/
1818年に葛飾北斎が描いた「養蚕・紡績の図」を見つけましたのでご紹介します。(4枚目)
これは「絵本庭訓(ていきん)往来」という書に描かれているもので、江戸時代の養蚕仕事の息づかいが伝わってきますね。
直虎、淡い恋心残して去る
2019年8月24日
詠み人しらずの和歌に、
「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」
というのがあります。
最初知ったとき、わずか五・七・五・七・七31音の中に、なんとたくさん「月」を入れたものか!
と驚きました。
しかも文章になっている上に情景まで目に浮かびます。
この歌は見事に和歌としても成立していますが、江戸時代には「七度返し」という雑排に分類される言葉遊びが流行っていたようです。
「雑排」という落語の中には、いろいろな「七度返し」が出てきます。
「宇治の火事茶園火炎と燃え上がり茶摘み茶仕事茶っ茶無茶苦茶」
「猫の子の此の子の猫の此の猫の子猫此の猫此の子猫猫」
「クリクリの坊主が庫裏(くり)を九里(くり)歩き栗食いながら目玉クリクリ」
「瓜売りが瓜売りに来て瓜売れ残り売り売り帰る瓜売りの声」
なんとも陽気でダジャレ好きな江戸っ子の気質を感じますね!
そこで筆者も負けじと「七度返し」に挑戦したのを、今回の話の中で使ってみました。
「糸縒りの暇厭おふ糸姫のいと愛しいと糸染めの糸」
「イトよりのイトまイトおうイトひめのイトイトしイトイトぞめのイト」
直虎に詠ませたこの歌は、「イト(糸)」という音韻を強引に9ヶ所使いましたよ!(笑)
ずいぶんと頭を悩ませました(笑)