column-10 直武の死と風雲の世
12代藩主直武の急死
2019年8月31日
前回の掲載で、江戸時代に寺小屋を営んでいたという高山村のお寺の方から、文中の『まだ識字率が途方もなく低い時代である。』という表現に対して、
「そんなことはない。しっかり調べたのか?」
という思わぬお叱りのお電話をいただきました(汗!)
過去に見た映画や時代劇の印象や、須坂という片田舎な上、当時は女性が学問をすることに対して極めて無頓着だったという認識だった筆者は、識字率100%の現代と比較すれば明らかに大きな隔たりがあるだろうと思い込んでいたので、あまり深く考えもせずそう表現したわけですが、
「信州の上高井あたりは江戸時代寺小屋がとても多く就学率も高かった。そこでは論語などの読み書きが教えられており、女性においてもおいらんなどはものすごく学識があったのだから“途方もなく”というのはいかがなものか?」
と言うのです。
自信がなくなった筆者は、江戸時代の識字率について調べてみますと、なんと、
「幕末期の識字率は70%~90%で、世界一の水準だった」
というのが一般的な理解になっているようです。
「そ、そんなに高かったのか……」
唖然としながら更に調べていますと、明治16年に明治政府が調査した江戸期の寺子屋の数というのを見つけました。 (文部省編『日本教育史資料』明治25年)
それによれば幕末期の寺小屋は全国で15,560校確認したそうで、2019年の全国の小学校の数が2万ちかくありますから、思ったほど大きな開きはありません。
これを整理した研究によれば、寺子屋の内訳は、
共学校8,636、男子校5,180(※分かりやすく共学・男子校と書きました。)で、1つの寺小屋に通う平均児童数は、男子43人、女子17人なのだそうです。
合計すれば60人ですが、男女比(男子:女子)の割合は明らかに女性の方が低く、地方によってもまちまちで、
関東 5:3
東北 12:1
近畿 5:2
九州 10:1
だそうです。
寺小屋に通った子どもの年齢は何歳~何歳くらいまでかというデータもありませんし、江戸時代のことですので漏れもあるでしょうから一概に現代の小学校と比較するわけにはいきませんが、平成30年度の文科省調べでは、全国の小学生の人数は6,427,867人だそうで、それを19,892校(全国小学校数)で割ると1校の平均人数は約323人となります。
つまり、至極おおざっぱな概算で児童数は幕末期の5.4倍です。
人口でみますと、幕末期は全国約3000万人前後と言われますから現代はその約4倍。
現代は少子時代と言われるとおり、人口に対する就学児童の比率は未就学の女子も含めれば幕末の方が相当高かったと言えます。
いずれにせよ明確な資料がないため、江戸時代の就学率や識字率の正確な数字はよくわかっていないようです。
一寸子花里の浮世絵
https://en.m.wikipedia.org/より転載
今回の、幕末の識字率はどれくらいだったかという問いに対し、ある研究論文にこうありました。
「明治初期20年代半ばまで識字人口層は、江戸末期とあまり変らず、文部省の自署率調査によれば、識字率は最大で、男子50~60%、女子で30%前後であったのではないかと推測される」
と。
これが“途方もなく低い”という表現に該当するかどうかは読み手側の受け取りによりますが、筆者はややおおげさであると判断し、“途方もなく”という表現を削除・訂正いたします。
言葉を扱う仕事はホント神経を使います。。。
写真は江戸時代の浮世絵師一寸子花里(いっすんしはなさと)が描いた浮世絵です(「文学万代の宝 末の巻」)。
目を見張るのは女性の先生が子ども達を教えていることです。
後に小説でも少し触れますが、須坂の寺子屋では、女性の師匠が3人いたことが確認されているそうです。
一般的に寺小屋の師匠の多くは士族、平民、僧などの男性がほとんどだったと思われていますが、案外、子ども達の実質的な面倒を見ていたのは女性だったのではないでしょうか?
ジェンダー、ジェンダーと騒がれますが、その概念は時代とともに大きく変化していることは否めません。
生麦事件と尊王攘夷
2019年9月14日
突然ですが『信州の土は砂利』という言葉をローマ字でどう書きますか?
道路標識やパスポートなどで使われる“ヘボン式ローマ字”の表記では「shinshu no tsuchi wa jari」と書きますでしょうか。
ところが筆者が小学校の時に教えられたローマ字は“訓令式”というもので、これで表わすと「sinsyuu no tuti wa zyari」となります。
また、筆者の本名は「しんいちろう」といいますが、小学校のとき「sinitirou」と習ったのが、中学へ行ってから英語の先生に「shinichiro」と書くのだと教わった時には、理解できずに以来英語が大嫌いになりました(笑)
早川松山『生麦之発殺』錦絵(Wikipediaより)
なぜこんな話題を出したかといえば、今回扱った「生麦事件」とちょっとした関わりがあるからです。
「生麦事件」といえば、後の日本に多大な影響を与えた出来事です。
これは文久2年(1862)8月21日、薩摩藩の島津久光の行列と観光中の4人のイギリス人が武蔵国生麦村で鉢合わせた際起こった殺傷沙汰ですが、薩英戦争の引き金となり、時勢が討幕へと傾く因をつくった大事件とされます。
このとき亡くなったのがリチャードソンという英国人男性ですが、女性のボロデール夫人は無傷(女・子供を大切にするといった紳士的概念は万国共通なのでしょうか?)でしたが、深手を負ったマーシャルとクラークという二人の男性は、当時アメリカ領事館となっていた本覚寺に命からがら逃げ込んだのでした。
そこにいたのがジェームス・カーティス・ヘボンというアメリカ人医師です。
ヘボン博士(Wikipediaより)
名前でもうお気づきでしょうが、このヘボン博士こそ“ヘボン式ローマ字”の考案者なのです。
実は「ヘボン」ではなく正確には「ヘップバーン」というらしいのですが、日本人の耳には「ヘボン」と聞こえたとか(笑)
彼はアメリカのペンシルバニア大学で医学博士号を取得後ニューヨークで開業していましたが、1859年に医療伝道宣教師として日本に来ていたそうです。
33年間ほど日本に滞在し、その間日本語の研究や、ヘボン式ローマ字を生み出したといいます。
日本初の和英辞典の編纂や、聖書の和訳にも従事した実績もあります。
歴史を調べていくと、意外なところで意外なものに突き当たるものですね。
直虎、西洋貿易に着目
2019年10月5日
さて、今回扱った参勤交代緩和令は、三代将軍徳川家光の時から実に227年間続いた参勤交代の制度を改める大改革でした。
ところがその割にあまり知られていないのは、幕末を描く小説などは、その多くが改革派の視点によるもので、幕府側から見た情勢というのがあまり語られていなためでしょう。
文久2年閏8月22日に布告された参勤交代の緩和は、それまで隔年で江戸と国許を行き来してた大名が、3年に一度、しかも100日間だけ江戸に来ればいいというものでした。
加えて大名の妻子は定府を常としていたのを国許に帰すことを許可した、幕府方針を根底から覆すものでした。
ところが歴史的な大改革の割に反発が起こらなかったのは、もしかしたら諸藩は好意的に受け取っていたからかも知れません。
それだけ参勤交代は各藩にとって負担が大きい制度だったということではないでしょうか?
幕府の意図は、諸外国の侵入や尊攘派による不穏な情勢に対応するため、江戸でかかる諸藩の莫大な諸経費をおさえ、その分軍備に回して強兵を促そうとしたようですが、結果的には、江戸経済の悪化と幕府に対する不信感を招いたようです。
この数年後、ふたたび参勤交代の制度をもとに戻すというお粗末さ。
明らかに失策だったと言わざるを得ないでしょう。
組織の結束を緩めるのは、上に立つ者の朝令暮改の優柔不断な方針の打ち出しではないかと思います。
こと国家における失策は取り返しがつきませんね。
対立深まる幕府と朝廷
2019年12月4日
燎原ケ叒【第51・52話】第10節「直武の死と風雲の世(5)(6)」が、11月9日と23日に須坂新聞に掲載されていました。
たいてい掲載された土曜日の朝に気付くのですが、ここ何週間なんやかやとせわしく、おまけに須坂新聞社の担当O氏からも何の音沙汰もなかったため、「災害の報道で忙しいだろう」と目も通さずにいたところが、12月に入って次回の原稿の催促があったことで、聞けば既に2回掲載されていたことを知り、「はっ!」と我に返った愚かな筆者でありました。
この2回で第10節「直武の死と風雲の世」が完結しました。
物語は直虎が生糸殖産への道筋をつけようと、家臣を横浜に送ったくだりですが、当時の生糸の国内流通や海外貿易の実態は、ことのほかゴタゴタしていてよく分からないというのが本当のところ。
それでも生糸の価値が文久年間どれくらいだったかだけでも知らなければと、さんざん調べた挙句、フランスとの貿易で生糸1貫(約3.75kg)15両ということで話を進めることにしました。
詳しい方がいたら教えて下さい。
さて、次回から第11節「7両と2分」が始まります。
秘めやかな直虎の女性関係が、この“7両2分”というキーワードでつながっていきますよ。