《その1》の続きです。
もともと勝海州は“自刃”することに対して絶対的な反対の考えを持っています。
『清譚と逸話』の「死を軽んずるの風」の中では、
「死を怖れる人間は、勿論談ずるに足らないけれども、死を急ぐ人も、また決して誉められないよ。日本人は一倍に神経過敏だから、必ず死を急ぐか、又は、死を怖れるものばかりだ。こんな人間は、共に天下の大事を語るに足らない。」
と言っており、「死を急ぐ人も、また決して誉められない」という言葉は『解難録』の「何ぞ死を促すの速なる哉(どうして死に急ぐのか)」と全く重なります。
更には、
「苦しいといって、事局の如何を顧みず、自分の責任も思わず、自殺でもして当座の苦しみを免れうとするのは、畢竟その人の腕が鈍くて、愛国愛民の誠がないのだ。即ち所謂屑々(せつせつ)たる小人だ。」
とまで言っています。
彼の持論は“日本人の精神は潔癖と短気”で、忠義を尽くして死んで逝ったとされる者の中で、唯一認める人物がいるとしたら山中幸盛と大石内蔵助だけと二人の名を挙げています。ただし“強いて挙げれば”の話ですが。(笑)
そして彼の信条は、「死ぬほど苦しいことがあったとしても、全ての責任を一人で引き受け、非常な艱難に堪え忍び、綽々として余裕を持って事に構えていること」だと記します。
なるほどこれには筆者も大賛成です!
が、切腹して死んでいった人たちを“天下の大事を語るに足らない”とか“愛国愛民の誠がない”とまで言われてしまうと、彼には“忠義”の美徳を感じる心がその根底から欠如していることに気付かされます。
仮にも直虎は、妻俊への恋慕の念を断ち切り、“採蕨の歌”の中国故事に習って朝廷への“恩”と徳川家に対する“忠”を尽くさんがため、日本の領主慶喜を諫言し自刃したのですから、これ以上の“愛国愛民の誠”はどこにあるのでしょうか?(※【参考】続・堀直虎辞世 完全解読!)
福沢諭吉も『痩我慢の説』の中で「(勝海舟は)武士の風上にも置かれぬ」と述べている通りかも知れません。
そこで勝海舟が江戸無血開城へと至った思想的背景を、直虎諌死直後の18日以降に彼が書いた呈進書から、その心をのぞいてみたいと思います。
この時期彼は、立て続けに呈進書を執筆しており、一つは京都にいた松平春嶽を介して参預に宛てたものと、もう一つは三道の城主に宛てたものがあります。“三道の城主”というのは東海道・東山道(中山道)・北陸道に在する城主の事で、まずはこの2つの中身を要約してみます。
『正月十八日松平春嶽公を介し参与へ送る書(要約)
アメリカをはじめイギリスやフランスは、官軍が兵庫の居館を襲うための戦闘準備をしている。インドや支那はその植民地となった。
いま日本国内で争っていれば、西洋諸国はその隙を狙ってくる。
まさに皇国は、インドや支那と同じ轍を踏もうとしている。
しかし幕臣たちは、口では勤王を唱えているが、その実は私情をはさみ、皇国が滅び、民衆が塗炭の苦しみに陥ることを考えてもいない。
私が上進しようとしても、有罪の幕臣たちは主君と死ぬの待っているだけで、この千載の遺恨をどうしようもない。
私より先に斬首の者があると思うが、もう黙っていられない。』
『三道の城主へ与ふる書(要約) 戊辰正月
もともと伏見の挙兵は私の誤りから始まったものだが、天下の情勢を見て何もしないのは公平でない。
5、6年前、毛利家に不敬があったとしてもその実情が分からないのは今も同じであり、朝廷といっても誤りがないとも言えない。いわんや徳川家においても同じである。
その誤りを誤りとしてその実情に尽くし、道理を正して初めて世の中をどうすべきか決めるべきである。
王政復古の大号令から今回の兵事はあまりに突然の出来事である。
三道城主の立場としては忠義の心で主君を諌め尽力し、死を以て国に報ずるべき時なのである。
聞け三道の城主たちよ。どうにも決めかね痛恨に堪えないところであろうが、奮い立って同じ心で協力せよ。
皇国を富強し万民を撫育するのは一国の長の努めである。朝廷もまた懸命なる王政復古の大命を発した。それでもなお主家に歯向かおうとするか。
皇国が滅びることを憂えずにはいられない。今となっては百万の猛兵を率いて江戸に下ったとしても恐れることはない。官軍に加わり、この正邪を問おうではないかと忠告する。』
もはや幕臣の言葉ではありませんね。徳川家に対する怨恨さえ感じられます。
更に1ケ月後の2月17日に再び松平春嶽を介して上国参与に建言していますが、その内容は一通目とほぼ同じです。知人から聞いたロシアを中心とした同盟諸国の報告内容を綴った後、
『インドや支那と同じ轍を踏む。朝廷を汚辱し、皇国を内破す。その責任は誰にあるのか。いわんや今百年を待たずしてその詳細を問う。願わくば私情を捨て去り、公平至当を以て疑惑を解いてほしい』と。
これらの内容から読み取れることは、勝海舟は朝廷とか幕府といった枠組みを越えて、皇国=つまりこれは日本国と言えるでしょうが、参預に対し「内乱などやっている場合ではない」と言っています。
その一方で三道の城主に対しては『軍門に推参して(官軍に加わり)』ですから、一刻も早く内乱を鎮めようとする心が読み取れます。
彼が守ろうとしているのは「皇国」と「民」で、勝の言う「皇国」とは「誤りを犯しているとも限らない朝廷が治めた後の道理を正した国(『大朝といへ共~其條理を正し、初めて公私如何を決すべきなり』)」のことで、また、『万民塗炭に陥るを察せず』とか『万民を撫育』と言っているところの「万民」とは「日本国民」のことであり、その理想は“天皇統治による民主主義国家”なのだろうと捕らえられます。
なるほどこの考えは現代の日本の国家体制に近いといえますが、当時の人達が理解するには甚だ難しかったことでしょう。
文中には『忠諌尽力』『一死を以て国に報ず』などの勝らしからぬ言葉が出てきますが、これはおそらく諸藩主を説得させるための方便で、本心ではないと思われます。
この時代にあっては、勝といえどもこうした言葉を使わなければ説得できなかったということでしょう。
勝海舟が江戸無血開城へ向かった背景の思想が見えてきましたね。
ところがこの歴史的偉業に対して、福沢諭吉が異を唱えます。
『痩我慢の説』は明治24年に福沢が書いた論説で、徳川家(三河武士)の士風を“痩我慢(やせがまん)”と称し、武士というのは例え勝算がなくとも力の限り抵抗しなけらばならないと言います。
その点海舟は、江戸無血開城の際、様々な理由を並べ立てて城を明け渡してしまったと名指しで非難しています。仮にも三河武士であるならば、あのとき佐幕派諸藩と徹底抗戦すべきであったとし、万策尽きたならば江戸城を枕に討ち死にするのみだったと、勝のしたことは世界でも例がなく、外国人のいい笑い者だとつづります。
そして士風維持の観点から、国家存亡の危機に際しては勝算の有無は言うべきでなく、戦う前から必敗を決めてひたすら講和を求めた海舟の行動は、戦禍を免れたかも知れないが、立国の要素である痩我慢の士風を損なった重大な過失であると糾弾するのです。
そう言われてみればそんな気もしますね。(笑)
これに対して勝は「毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候」、つまり「言いたいやつには言わせておけ」と返答するのです。(笑)
もともとこの二人は馬が合わなかったようですが、現代人からすれば、勝海舟の意見や考え方の方が近いと言えるでしょう。
しかし最近になって筆者は思うのです。
慶応4年当時の勝海舟の思想や考え方が全て正しかったかといえば、必ずしもそうではないということです。
歴史は無血開城という形でひとつの動乱を食い止めましたが、筆者はあのとき一般市民を守りつつ、なおかつ平和的に解決できるもう一つの方法があったことを明記したいと思います。
それは──
将軍徳川慶喜が切腹することです。
日本古来の武士の約束事は、戦にあっては主君が命を落とせば全てが決着するのですから。
乱世における領主の“切腹”とは、領民を戦に巻き込んで犠牲者を出さないための“和の国日本”の精神風土が長い時間をかけて産み出した、究極にしてもっとも平和的で確実な解決法だったに違いないと考えています。
ところが大坂の陣以降250年以上続いた偃武の世にあって、いつしか将軍の権威は絶対化し、正論を言うに言えない空気が厳然と存在していたに違いないのです。
直虎はそれを諫言したのではないかと思えてなりません。
民衆のために“腹を切る”──。
これこそ長たるものの責任であり、また覚悟であり、その精神の欠落こそ現代の政治家たちの無責任な言動がはびこる一因ではないかとも思うのです。
言い換えれば“臨終只今”の精神をもって事に臨んでいるのかということです。
「どうして死に急ぐのか」と勝は直虎を非難しますが、もしかしたら勝はそのことを知っていたのかも知れません。
勝とて日本人ですので、武士の美徳とかを全く理解できなかったなど考えられないことです。
ところが彼は、そういった領民を守る領主としての切腹まで全て含めて、幕末以前500年間の日本武士の精神を真っ向から非難します。それは“日本”というものを根底から否定することに通じますから、なるほど敵も多いわけですね。
江戸無血開城は、幕府や朝廷ではなく日本国の有益を考えて行ったことはとてもよく理解できますが、それによって犠牲にしなければならなかった日本の精神というものを切り捨てたことを正当化するため、ひょっとしたら直虎の諌死を出汁に使ったとする見方もできなくはありません。
“死人に口なし”とはよく言ったものです。(笑)
社会は、“義”とか“恩”とか“忠”で成り立っている一面も厳然とあると感じているのは筆者だけではないはずです。
アメリカ譲りの“自由主義”や“個人主義”が蔓延した見苦しいほどの他人軽視が露呈している現代の日本を顧みるとき、改めて今一度、日本が独自に作り上げてきた和の精神を見直すべき時代に入っているのではないかと思うのです。
堀直虎の諌死は、明治以降、忘れてしまった日本人たるものを、そっと教えてくれているのかも知れません。
筆者はそれを、直虎の言葉を借りて“叒”と名付けたのです。