直虎諌死の錦絵(画:豊原国周)
国内に残されたいくつかの文献では、今のところ直虎は“諌死”と記されるだけで、将軍慶喜に何を諫言したのか?また、なぜ切腹したのか?等、具体的な内容は分っておらず、ずっと謎とされています。
直虎が藩主だった須坂藩でさえ、突然の出来事に何が起こったのか分からない様子で、尾張藩主徳川慶勝を通して必死に新政府への恭順意思を示そうとあたふたしているのを見ると、直虎の本心を知る者は当時にして誰もなかったと見えます。
あるいはいたのでしょうが、それを表立って口に出してはいけない何かがあったのだろうと思うのです。
しかし諌死直後から、明らかに慶喜の新政府軍に対する恭順方針が明確になっており、直虎の死がけっして無駄でなかったと信じているのは筆者だけではないはずです。
そして、260年以上続いた徳川幕府幕引きの大混乱の中、直虎諌死の真実はいつしか迷宮入りしてしまい、挙句は明治維新の立役者である勝海舟が著書『解難録』の中で「発狂せむとするが如し」「雪隠に入る暫時にして一叫す」などと書いたものですから、直虎は乱心して自殺したという説がすっかり定着してしまいました。
ところがアーネスト・サトウがそのへんの様子を書き残していました。
今回は、その内容から直虎諌死の真実に迫ってみたいと思います。
『アーネスト・サトウの日記』で直虎のことが記されているのは「第28章」、「Harakiri—NEGOTIATIONS FOR AUDIENCE OF THE MIKADO AT KIOTO(ハラキリ~京都の帝に拝謁するための交渉)」というタイトルがついている章です。
内容の前段では、外国人の目から見た、神戸事件の責任で切腹させられた滝善三郎の死に際の様子が生々しく書かれています。
ちなにみこの切腹の様子は新渡戸稲造の「武士道」の中でも、他の文献から引いたものを扱っていますが、どうやら外国人に見せるための公開切腹だったようですね。
そこで一部始終を目撃したアーネスト・サトウは、自国(イギリス)のニューゲート監獄で行われる市民の娯楽のための処刑よりもはるかに礼儀正しく神聖なものだったと感想をつづります。
アーネスト・サトウは“ハラキリ”が単なる処刑や自殺行為でないことを理解しています。
その上で、直虎の話が出て来るのはこの章の後ろの方です。
京都にいたアーネスト・サトウのところへ、大阪の徳島藩邸留守居役の藩士速水助右衛門という男が訪問し、江戸の出来事を伝えます。
その部分を書き出してみましょう。
『On the 7th February Hori Kura no Kami, one of the second council, had performed harakiri, after having vainly endeavoured to persuade Keiki to take that step, and offering to accompany him in the act. All Yedo applauded Kura no Kami and said Keiki ought to follow his example. The Baku-fu, said my friend, had no desire to fight.』
残念ながら筆者は英語が大の苦手なのです!
ですので翻訳については改めて正確に訳してもらう必要があるとして、今回はgoogleの翻訳機能を駆使した(笑)つたない筆者の和訳で我慢してください。
「On the 7th February」は西暦1868年2月7日で、旧暦では慶応4年1月14日になります。
直虎が諌死したのは1月17日ですから日付に若干のズレがありますが、次に「Hori Kura no Kami」とありますから堀内蔵頭直虎のことに違いありません。
速水がアーネスト・サトウを訪問したのが3月8日(慶応4年2月15日)のことですから、直虎諌死からおよそ1ケ月ほど経過していたことになります。
おそらく日付を間違えたか、あるいは「今からちょうどひと月前」というような伝え方をしたのかも知れません。
「one of the second council」は直訳すると「第二審議会の一つ」となります。
「老中」が「第一審議会」だとすると、これはおそらく「若年寄」のことではないかと思います。あるいは「one of the ~(~の一つ)」と言ってますから「柳の間詰め大名」のことでしょうか?
「柳の間詰」とは官位が四位以下の大名のことで、江戸城「柳の間」を詰め所にしていました。徳川御三家や将軍家の親族が詰めた「大廊下(おおろうか)詰」の大名を第一審議会とするならば、それ以下の「大広間(おおびろま)詰」「溜(たまり)の間詰」「帝鑑の間詰」「柳の間詰」などは第二審議会とも言えなくもありません?
いずれにせよ直虎は参政の一人として評定の場にいました。
その第二審議会に所属する堀直虎が、「had performed harakiri」とつづります。
つまり「ハラキリをした(切腹した)」と──。
国内でうやむやにされてきた直虎の切腹が、こうして外国人の記した文献に残っていたこと自体すごいですネ!
続いて「after」ですから「~の後」、何の後かと言いますと、、、(英語の授業になってる?笑)
「having vainly endeavoured to persuade Keiki」
「“Keiki”を説得する努力が無駄になった後」──「Keiki」というのは徳川慶喜のことですね。「慶喜」を音読みすると確かに「ケイキ」と読めます。(笑)
「さんざん慶喜を説得したが」と訳すと分かりやすいですね。
さんざんとは書いていませんが、少なくとも直虎が慶喜に対し“説得する努力”をしていた事実が記されています。
次の「to take that step」は「その行為(ハラキリ)におよんだ」と訳しましょう。
問題はその次です。
「and offering to accompany him in the act」
ここは特に英語の専門家に訳してもらった方がいい箇所だと思いますが、直訳すると「行為の中で彼に付き従うことを提案した」──
少し解かりずらい微妙な表現ですが、「act」はハラキリ行為ですので、切腹を通して従うよう示した──つまり直虎が「私と共に腹を切りましょう」と諌言したのではないかととれます。
翻訳に大きなズレはないと思いますが、驚くのは、直虎の諌死の様子が英語ではありますが明確に記されている点です。
英語の専門家でご興味のある人がいたら、どう訳すのが一番良いか教えて下さい!
続けて「All Yedo applauded Kura no Kami」と続きます。
「All Yedo」-「全ての江戸?」おそらくその場にいた全ての諸大名、もしくは直虎切腹の噂を知った江戸の庶民のことだろうと思いますが、「全ての江戸の人達」は直虎の行為に拍手喝采を送った(applauded)というのです。
あたかもピョンチャンオリンピックで金メダルを取ったフィギュアスケートの羽生結弦選手の時のような現象でしょうか?(笑)
明治になって「名誉新談」という錦絵の中に、直虎の切腹するシーンが描かれたほどですから(※下の写真)、“拍手が起こった”というのはけっして大げさな表現でなく、おそらく事実だったことでしょう。
勝海舟の証言とはまるでイメージが異なりますネ!
ここでまた疑問が生じます。
この場面での評定といえば、新政府軍に対する「抗戦」か「恭順」かが論点だったはずです。
ところが両者の激しい対立を越えて、直虎の行為はそこにいた全ての者を納得させてしまったというのですから、いったい何を発言したのでしょう?
何も言わずにいきなり切腹したとしたらそれこそ乱心ですが、拍手喝采ですから謎は深まるばかりです。
アーネスト・サトウの日記の証言からですと、少なくともこの時点において勝海舟の乱心説は全否定されますね!
虚偽と真実、光と影、善と悪とか生と死とかは表裏一体で、いつの世も人を惑わせるものです。
“諌死”と伝わるからには慶喜に物申したことは間違いないのですが、その内容となると今となっては想像するしかありません。
筆者は「主戦論」でも「恭順論」でもなかったと考えています。
なぜなら、そのどちらかであれば、必ず反対の立場の者から反論が出たはずで、「全ての江戸の人達」に拍手を起こさせることなどできなかったはずですから。
そのへんの推理は『(堀直虎・考)堀直虎諌言の謎』で考えてみましたが、ここでは『アーネスト・サトウの日記』の方に目を戻します。
続けて記されるのは、
「and said Keiki」-「そして慶喜が言った」、何を?
「ought to follow his example」-「彼の例をフォローすべき」と。
「example」には「模範」といった意味もあり、「follow」は「従う」とか「ならう」ですから、
「彼を模範にして従うべきじゃ」とでも訳しましょう。(“じゃ”?笑)
またまた新事実ですね!
慶喜までが直虎の切腹に共感し、「従うべき」とまで言ったというのですから!
つまりこの時点で慶喜の心が動いたことが、アーネスト・サトウの日記から読み取れるのです。
ところが不思議なことに、直虎諌死後の3月10日(旧暦)付の「口上書取覚」の中で、須坂藩重臣丸山兵衛次郎が新政府側の尾張藩主徳川慶勝に宛てて、
「同列多人数のうち一人の同論もなかった」「慶喜に採用もされなかった」
と、真逆のことを述べているのはいったいどうしたことでしょうか?
答えは簡単です。藩主直虎が、朝敵となった慶喜のために働いたとなれば、須坂藩も朝廷に反旗を翻したことになり、新政府軍を敵にすることになるからです。藩存続のためにはやむを得ない判断だったのでしょう。
こうした複雑な事情が直虎諌死の謎を一層煙に巻いているのです。
そして最後の部分は、
「The Baku-fu, said my friend, had no desire to fight.」
「私の友人(速水)は、幕府には戦う意思がないと言った」
前述したとおりこれは3月8日(西暦)のことですから、この時点において幕府が新政府軍に恭順姿勢を示していたことは周知のとおりです。
主だった慶喜の動向を記すなら、
正月(慶応4年・1868年)
11日 慶喜江戸に到着
12日 慶喜江戸城西の丸に入る
13日 駿府警備を命ずる―┬─抗戦姿勢
14日 神奈川警備を命ずる┘
15日 主戦派小栗上野介を罷免─小栗の抗戦主張があまりに激しく慶喜を怒らせたためと考えられる。
17日 堀直虎諌死
19日 江戸在中の諸藩主に恭順の意を伝え協力要請
20日 和宮に恭順協力要請。松平春嶽・山内容堂らに周旋依頼
23日 恭順派を中心にした徳川家人事変更
23日の人事変更に際して、勝海舟は若年寄を辞退し陸軍総裁(若年寄格)に就きます。
この若年寄辞退の理由が「無能の不才の身」だからと『海舟日記』にあります。
若年寄といえば直虎が就いていた職ですね。(←何が言いたい?笑)
勝海舟が西郷どんと会見したのはそれから更に遅れて3月に入って13日のことです。
駿府の大総督府へ赴くことになった山岡鉄舟が勝を訪ねたのはそれより4日早い3月9日のことですから山岡の方が勝より行動が早かったわけです。
その間勝は何をしていたのか、あの筆まめな彼にして『海舟日記』には何も記されていません。
言いたいのは、江戸無血開城は幕府側においてはいかにも勝一人の手で成されたようになっていますが、その功績は認めるにして、それよりも約2カ月も前に、慶喜の心を変えたと考えられる直虎の存在をけっして忘れてはならないということです。
まして乱心呼ばわりは誰の目から見てもヒド過ぎます。
ではなぜそれほどスゴイことをした直虎の諌死が、日本国内において目も向けられなかったのでしょう?
言えることは、時勢がどうなるか全く判らなかったこの時点において、直虎の切腹を称賛したりあるいは非難したりするような軽はずみな言動や発言は絶対にできなかったということです。また、そんな余裕もなかったことでしょう。
やがて戊辰戦争の大波は、ひとりの人間の諌死事件など、あまたの戦死者と共に闇の中に葬り去りました。
そして新しい時代は、科学技術をはじめ暦から法律、生活様式まで──挙句は武士の魂とされた日本刀まで捨てて(廃刀令・明治9年)、何から何まで西洋の思想を取り入れていくことになるのです。
それにしても、逆から言えばそれまで静かに、そしてゆるやかに形成されてきた“日本の文化・思想・心”の繁栄といったものの幕引きの最期を飾る、日本固有の武士の最終決着ともいえる“切腹”で生涯を閉じた直虎の真実が、西洋人の記した日記からしか読み取れないとは皮肉なものですネ。
(了)